石がたりスポット

小笠原氏 越前勝山城

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天正8年(1580)、袋田と呼ばれていたこの地に初めて城を築いたのは、柴田勝家の一族、勝安である。勝安は、九頭竜川の河岸段丘である七里壁や、北側に広がる沼地などを利用して城を築き、勝山支配の拠点とした。
勝安の築いた城は、元和元年(1615)の徳川幕府による一国一城令により壊されたようである。以後、その跡地には代々の代官の館が建てられる程度であった。勝山において城郭と城下町が整備されてくるのは、元禄4年(1691)に小笠原貞信が入封してからである。貞信は2万2777石をもって美濃国(岐阜県)高須から勝山に入封した。当時、勝山には城跡しかなかったので、貞信は幕府に対し築城の許可を願い出たが、実際に許可を得たのは宝永6年(1709)7月12日、二代信辰の代になってからである。
信辰は、まず本丸の普請に取りかかった。古い堀を掘り返したり、土居を築いたりして一応その形を整えた。しかし、財政が続かなかったようで、その後の工事は中断した。工事が再開されたのは、およそ60年後の明和7年(1770)、五代信房の時である。信房は二の丸を築き、藩主の御殿をそこに移転した。七代長貴は、幕府の若年寄という要職についたが、藩の財政は出費がかさみ厳しかった。その上、文政5年(1822)には本丸から出火し、門・高塀・土蔵を残して焼失した。この時は、町や村むらからの見舞い金や手伝いによって、瓦や檜皮葺きの御殿が再建された。また、長貴の代には、二の丸北部の未完成部分が仕上げられ、築城からおよそ120年が経過してようやく当初の計画(右の図)に近い形の城郭ができあがった。しかし、点線部分の「蔀曲輪」と「東馬出」はつくられず、天守閣も築かれることはなかった。
八代長守の時に明治維新を迎えたが、城郭の建物等は売りに出され、天守台と本丸の堀の一部を残し埋め立てられた。
ここには、ながく小山状の天守台があり、市民から「お天守」と呼ばれ親しまれてきたが、昭和42年(1967)の市民会館建設に際し削平された。現在、その跡地には、長守と長育の筆による「勝山城址之碑」が残るのみである。
なお、右の図は、増田公輔氏が宝永6年の「勝山城再建絵図」をもとに作成したものである。

位置情報小笠原氏 越前勝山城の位置情報

福井県勝山市元町1丁目5−16

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